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鬼生田という集落は落ち武者の里だったのかもしれない[生活]

2013-08-13

先日、見える人から、お盆は実家に帰ったほうが良いよ、と
言われたので(-->[2013-07-16-1])、実家に帰ってお墓参りをしてきた。

父方の祖父の実家が郡山の鬼生田(おにうだ)というところにあり、
そこのお墓にも久しぶりに線香を上げに行った。
うっそうと木が茂った山のかなりの急斜面を登っていくと、
ちょっと開けた休憩所があり、そこを越えると少し開けて、
ひっそりと古い墓地が群生している。
山を登っていくときに、一瞬なんか変な感じがしたのよね。
悪い感覚じゃないんだけど、一族も者かどうか警戒してる、
というかそんな感じ。
なんか妙なのよね。

その墓の裏側には廣度寺という立派な寺がある。

廣度寺
http://www.koudoji.jp/

平将門の末裔平氏田村一族の開基で大同年間(806年〜810年)に開かれました。


平将門って負けた人だよなあ。。。
ただ変なのよね、平将門が死んだのは940年で、寺が開かれた年よりだいぶ後。

Wikipedia - 平将門

その時代の田村氏というと坂上田村麻呂(758年〜811年)の名前が浮かぶ。

Wikipedia - 坂上田村麻呂

福島県の中通りには「田村」の地名が良く出てくる。
この寺も関係してるって考えるのが自然よね。

このお寺のリンクを辿っていくと、

鬼生田の昔ばなし
http://www.koudoji.jp/10mukasi_banasi.htm

桓武天皇(かんむてんのう)の時代のこと(西暦761年〜804年)
...


ずいぶん具体的だな。

お腹の大きくなった女の人が
...
そのまま田んぼで赤ん坊を産みおとしてしまったんだと。
...
なんと、驚いたことに、その赤ん坊は鬼の子だったっけど。
...
それから、このあたりのことを「鬼が生まれた田んぼ」ということで
鬼生田という名前がついたんだべない。


大多鬼丸は、大滝根という所に住み、手下を大勢ひきつれて南奥州の大将になったんだと。
...
その話を聞いた桓武天皇(かんむてんのう)は、時の将軍である
坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)に大多鬼丸征伐を命じた。


鬼はいわゆる貴種であり、坂上田村麻呂の敵だったってことかしらねえ。
その鎮魂のために作られたのがこの寺なんだろうな。
廣度寺の別のページには、まさにそのようなことが書いてある。

鬼生明神
http://www.koudoji.jp/9abukuma.htm

でもなんでわざわざ平将門の名前が出てくるんだろ??

集落の作りを良く見るとなんか変な作り方をしてるんだよね。
寺も墓地もそのまま砦として使えそうに道が作られてる。
人が住んでいる集落も小山の中腹に作られていて、
家の近所は湧き水が出ており水には困らず、畑で食料も豊富。
ここも砦として使えそう。
実際に戦国時代に館を構えていた史跡もあるっぽい。

ひょっとして鬼生田という土地は、落ち武者の里として機能してたのかしら。
であれば、わざわざ平将門の名前を持ってきたのもわからないでもない。
歴史的に、政争に負けた側を収容し続けてきた土地なのかもしれない。
阿武隈川の横にあって交通の要所になってもおかしくないのに、
妙に行きにくい場所に集落があるのは、わざと道路を不便に
作って集落を守っていたのかもしれない。

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